小津安二郎

とは?

 

日本を代表する映画監督。1930年代の切れ味鋭く社会を描写した作品、1949年『晩春』以降の日本の伝統を積極的に描いた作品が特に評価され、溝口健二、黒澤明らとともに海外でも広く知られている。一方、その人物研究は十分になされてこなかった。近年、

-小津両親並びに祖父母の再婚経験
-浪人時代の映画批評活動
-若手時代に舞台演出をおこなっていたこと
-毒ガス部隊での戦闘体験詳細
-最後の映画人としての仕事、大島渚『私のベレット』脚本監修

などが明らかになってきており、また研究が進んでいる。

小津安二郎略歴

(『小津安二郎 大全』より作成。強調部は近年明らかになってきたこと)

 

1903年(0歳)
12月12日、東京深川に、父寅之助、母あさゑの次男として生まれる。父は有力な伊勢商人の一つ、小津新七家の跡継ぎで、深川にあった問屋・湯浅家の番頭(支配人)。母は三重の名家出身。裕福な家庭だったと言えよう。
一方、父は前妻と死別、母は前夫と離婚しており、ともに2度目の結婚。さらに父方の祖父、母方の祖母も再婚だった。両親祖父母ともに離婚再婚を経験しているというのは珍しいことだった。このことが小津安二郎は家族を多く描いたことに影響しているという見解もある。
なお、本居宣長も松阪の小津家の出なので血縁があると誤認されることもあるが、両者に直接のつながりはない。

1909年(5〜6歳)
深川区立明治小学校附属明治幼稚園に入園。当時幼稚園に入れることは稀。小津家はかなり富裕で教育熱心だったことが伺える。

1910年(6〜7歳)
深川区立明治尋常小学校入学。絵を描くのが好きなおとなしい少年だったという。

1913年(9〜10歳)
仕事のあった父を残し、一家は小津家の郷里である三重県松阪に引っ越す。当時の深川の粉塵公害のためだろうか。この頃描いた絵が残っているが、大人顔負けの腕前だ。父方の祖父が収集していた浮世絵の影響があるという分析もある。

1915年(11〜12歳)
『名金』(フランシス・フォード監督)が流行。この『名金』から映画を本格的に見るようになった。松阪の家の近所に映画館があったのでそこに通ったのだと思われる。「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助の出る映画にも夢中になった。

1916年(12〜13歳)
三重県立第四中学校(現・県立宇治山田高校)に入学。当時中学校に進学できるものは多くなかった。小津は成績も優秀だったようだ。通学には遠かったこともあり、寄宿舎に入る。中学では柔道部に所属、写真撮影や映画に夢中になった。

1917年(13〜14歳)
トマス・H・インス監督『シヴィリゼーション』を観て映画の世界に入ることを考えたという。

1920年(16〜17歳)
当時の中学は5年制だったが、その最後の年、男子生徒同士が恋文をやり取りしたなどとする「事件」が起こった。小津は無実を主張したが関与したとされ、停学並びに寄宿舎追放処分を受ける。以後自宅から汽車通学になるが、不良の文化とみなされていた映画を鑑賞するには好都合だった。小津は映画にのめり込んでいく。成績も落ちたようだ。

1921年(17〜18歳)
中学を卒業、兄の通っていた神戸高商(現・神戸大学経済学部)を受験するが失敗。名古屋高商(現・名古屋大学経済学部)受験にも失敗し、浪人生活に入る。しかし勉強に専念しておらず、映画研究会を立ち上げ、ハリウッド俳優に英語で手紙を送る、映画批評を新聞社に送り掲載される、など映画に熱を上げていた。

1922年(18〜19歳)
三重県師範学校(現・三重大学教育学部)を受験するがまたも失敗。中学の親友の紹介もあり、三重の山あいにあった宮前尋常小学校に就職。代用教員となる。小津の映画で子どもが秀逸な演技を見せるのは、この教員経験が活きているのかもしれない。生徒に慕われていたようで、生徒にマンドリンを聞かせた、ローマ字を教えたなどの記録が残っている。年末、一家が深川に引っ越す。

1923年(19〜20歳)
1年で教員を辞め、上京。10年ぶりに東京での生活が始まった。家族からは反対されたが、親戚の口添えも得、松竹に入社し撮影助手になる。碧川道夫の助手になりハリウッド流の撮影を学んだ。

1926年(22〜23歳)
撮影部から演出部に移動。大久保忠素の助監督になった。多数のギャグを生み出し、採用されたようだ。

1927年(23〜24歳)
のちに井上金太郎により映画化される長編脚本『瓦版かちかち山』を執筆。その後、給仕が助監督である自分を飛ばして料理を届けたことに腹を立てて暴れた、通称「ライスカレー事件」を起こす。それが原因で撮影所所長に呼び出されるのだが、かえって面白い奴だと注目され、監督に昇進。時代劇『懺悔の刃』を監督する。

1928年(24〜25歳)
会社から映画を撮るよう何本かの話を受けたが、内容を好まなかったようで断る。その後、まずは会社に実力を認めさせることが先決だと考えを改め、学生を主人公にしたドタバタ喜劇を連発した。監督4年目には1年で7本も監督するなど多作だった。欧米映画の影響を強く受けたこれらの初期作品は「新しい」「バタ臭い」などと評された。

1932年(28〜29歳)
初期の名作として知られる『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』が封切られる。客入りは良くなかったが高い評価を受ける。この前後から主人公が学生から会社員に移行。世界恐慌の影響もあってか、物語も悲劇的になっていく。

1933年(29〜30歳)
『出来ごころ』封切り。欧米映画の影響を多分に受けてきた小津が下町人情を描いた、小津にとって大きな転換点となった。

1934年(30〜31歳)
正月の特別舞台公演『春は朗かに』を演出舞台作品演出は1942年『健児生まる』でもおこなっている。父逝去。翌年に高輪に引っ越し、母、弟と暮らす。弟の学費を支払うなど、金銭的に大変苦労したという。

1936年(32〜33歳)
サイレント映画で粘っていた小津だったが、初トーキー作品『鏡獅子』を発表する。

1937年(33〜34歳)
知人らと新宿に「第八劇場」なる劇場の設立を計画。8月、召集を受ける。東京・竹橋の近衛歩兵第二連隊に入隊。劇場設立の計画も立ち消える。小津は毒ガスを扱う部隊に配属された。特別にカメラの帯同を許可され、愛用の高級カメラを持参し従軍中に4000枚もの写真を撮影する。

1939年(35〜36歳)
帰還命令を受け、約2年ぶりに帰国。多くの戦友を失うなど、過酷な戦争体験だった。

1941年(37〜38歳)
『戸田家の兄妹』封切り。批評家からの評価は高かったものの売り上げは伴わなかった小津の映画が、初めて商業的にも大きな成功を収める。山中貞雄之碑、揮毫する。

1943年(39〜40歳)
映画の検閲を担当することになり、そこで見た黒澤明の第一作『姿三四郎』を絶賛。その後、国策映画を撮るよう指示を受け、シンガポールに派遣される。ロケハンや取材もしたが、戦況悪化で中断。オーソン・ウェルズの『市民ケーン』など日本で観ることのできなかった欧米の映画を100本以上観る。

1945年(41〜42歳)
終戦。捕虜となり抑留生活を送る。抑留所内での日本人向け新聞「自由通信」の編集や挿絵を担当。また、『太平記』や『平家物語』『古今集』などを研究、俳句も詠んだ

1946年(42〜43歳)
2年半ぶりに帰国。千葉県野田に移住する。翌年『長屋紳士録』を監督。戦争後にどのような作品を撮るのかと期待されていた中、戦前と変わらぬ下町人情噺だった。

1949年(45〜46歳)
『晩春』封切り。『箱入り娘』以来、14年ぶりに野田高梧との共同執筆が始まる。話の内容も『箱入り娘』と同様、娘の結婚を題材にしたもので、さらに当時否定的に捉えられがちであった日本の古典文化を積極的に描いた。娘の結婚が小津に合う主題だと野田が勧めたのではないかという研究も進んでいる。

1950年(46〜47歳)
初めて松竹以外で撮った『宗方姉妹』が封切られる。洋画を含む興行年間第1位。以降『麦秋』『東京物語』と高い評価を受けつつ興行的にも成功する作品を撮る。

1952年(48〜49歳)
北鎌倉に引っ越し。母と共に住む。

1954年(50〜51歳)
小津らによる脚本『月は上りぬ』を田中絹代が監督することになったが、当時の五社協定でもめて製作が難航。小津は自由に映画が作られるべきだと田中を応援、松竹も退社することにし、以降は自由契約となる。また、『晩春』『麦秋』『東京物語』などを製作した山本武も松竹から日活に移籍(のちに『幕末太陽傳』などを製作)。翌年から、小津の松竹での作品は山内静夫が製作担当することになる。

1955年(51〜52歳)
来日したウィリアム・ワイラー(『嵐が丘』『ローマの休日』)とパーティーで話す。以前より好んでいた監督だったが、次回作をワイド画面で撮ると聞き失望。

1956年(52〜53歳)
大修館書店の教科書「新・高等国語」に『麦秋』の脚本が掲載される。この年から脚本の執筆を長野蓼科に借りた「無藝荘」で行うようになる。

1958年(54〜55歳)
初のカラー作品『彼岸花』封切り。トーキー移行と同じく、他監督に遅れた移行だった。
ロンドン映画祭で『東京物語』がサザランド賞を受賞。映画監督リンゼイ・アンダーソンらにより賞賛される。ここから少しずつではあったが小津の海外での評価も広がっていく。

1961年(57〜58歳)
『小早川家の秋』撮影で兵庫県宝塚に滞在。時間のあるときには学生時代から好んでいた宝塚歌劇に通った。撮影チーフの田邉皓一によると、宝塚歌劇団の舞台演出を小津が務める話があり、宝塚の上層部とも話が付いていたという。現在研究が進められている。

1962年(58〜59歳)
母逝去。『秋刀魚の味』封切り、最後の監督作品となる。

1963年(59〜60歳)
NHKテレビドラマ『青春放課後』の脚本を里見弴と執筆し、同年放送される。これが最後の脚本となる。その後、次回作『大根と人参』の構想を練る。並行して、若手で注目されていた大島
が監督する、いすゞ自動車の宣伝映画『私のベレット』脚本を監修。いかにも小津らしい台詞も刻まれた。最後の映画人としての仕事になる。4月、頸部に腫れ物ができたため入院。癌だった。12月12日、満60歳の誕生日に逝去。墓は本人の希望により北鎌倉の円覚寺に作られ、母と眠る。

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