山内静夫氏インタビュー――小津安二郎『彼岸花』(1958年)の製作をめぐって 伊藤弘了

『彼岸花』の台本について


伊藤:小津安二郎監督の『彼岸花』(1958年)について調べています。各地に所蔵されている『彼岸花』の台本を見ていくなかで、京都弁のセリフに様々な人物が修正を施している跡を発見しました。大変興味深い事例ですので、のちほどその辺りのことも山内さんにお伺いしたいと思います。まずは前提の確認なのですが、山内さんは『彼岸花』の前の『早春』(1956年)からプロデューサーとして小津組に参加されておられますよね。『早春』、『東京暮色』(1957年)の後、『大根役者』を撮る予定だったはずが、北陸にロケハンに行ってみたら積雪が少なくて撮影できそうにないので、『彼岸花』に変更になったそうですね。
 

山内:急遽、『彼岸花』にね。
 

伊藤:小津監督の日記を読んでいると、北陸地方のロケハンから戻った後に、大映の永田社長と会って話をしたという記述が出てきます。そのときに、山本富士子を借りる話が出たのではないかと考えているのですが。
 

山内:そうです。当然そう。
 

伊藤:だから、小津と野田高梧は山本富士子を最初から念頭に置いて台本を書いているわけですよね。
 

山内:もちろんそうです。
 

伊藤:それで、『彼岸花』の台本にはいくつか種類があるようなのですが。
 

山内:小津先生の場合には、あんまり大きな変更はないから、ホンができたらまずそれを配ってしまうんです。
 

伊藤:出演される俳優にはもうこの段階で台本が配られているわけですか。
 

山内:もちろん、配られている。
 

伊藤:これは、早稲田の演劇博物館に所蔵されている台本の裏表紙をコピーしたものなのですが「昭和33年4月8日」という日付と「120」という数字が書かれています。台本の脱稿が4月3日なので、この日付はその直後に当たります。「120」という数字は印刷した部数かと思うのですが、どうでしょうか。
 

山内:120っていったら、総部数かもしれないね。
 

伊藤:この最初の段階の台本はどういう方に配られるんですか? 会社内だと、役員の方にも当然配るわけですよね?
 

山内:役員には行きます。それから主要なスタッフには渡す。あとは俳優さんだね。
 

伊藤:いまご確認いただいたのとは表紙の違う台本もあって、これは中が二段組みになっています。内容は先ほどのものとほぼ同じです。映画の撮影始まってからの日付なのですが、こちらには裏表紙に「1051」という数字が書き込まれています。最初の台本よりも多くの方に配るために作ったということでしょうか。
 

山内:そうです。というか、それは、小津組でやっていることではなくて、松竹が『彼岸花』を色んな形で広報する上で、この台本もあちこちに配ったわけだよね。宣伝部に何部とか、営業部に何部とか渡していったものですね。
 

伊藤:映画はこの年の9月に公開されていますが、その前の7月の段階で『彼岸花』のシナリオを含むシナリオ集が『キネマ旬報』から出版されているんですよね。映画の公開直後に出た『キネマ旬報』の『彼岸花』評を読むと、もうシナリオは読んだ上で、映画とシナリオの比較をしています。
 

山内:だから、かなり早い段階で、批評家とか新聞社とか、そういう所へPR用として配ってはいるんですね。うん、そういうことはかなり早くからやっていましたね。
 


 

台本に残された手書き文字の筆跡


山内:撮影が始まったのは何月だったかな。
 

伊藤:台本を3月5日から4月3日にかけて書いて、その後、5月12日がクランクインですね。それで、クランクアップが8月25日になっています。
 

山内:クランクインはどこ? 場所は?
 

伊藤:大船撮影所のセットからですね。
 

山内:セットか。
 

伊藤:山本富士子さんが初めて撮影に臨むのが京都のロケーションなのですが、それが5月17日です。ただ、13日にはカメラテストのために大船に来ているようですね。台本のほかに、手書きの草稿ノートも見たのですが、これは小津監督ご自身が書かれたものだと思います。小津監督の筆跡はお分かりになりますか、ご覧になって。
 

山内:これは監督の字だよ、全部。間違いない。
 

伊藤:草稿ノートとは別に、原稿用紙の裏側に映画のシーンがほぼ全て書かれているものも残っています。こちらはノートとは筆跡が違うようですが。
 

山内:これは野田高梧さんの字じゃない?
 

伊藤:そうなんですね。じゃあ、2人で、野田さんは原稿用紙に、小津監督はノートに書いていったわけですか。
 

山内:シナリオを作っている段階のものだ。これは珍しいよ、こういう資料。珍しい。
 

伊藤:それから、この表紙の台本は小津監督が撮影時に実際に使っていたもののようですが、表紙のイラストは小津監督がご自分でお描きになっているんでしょうか?
 

山内:自分で描いたものだね。
 

伊藤:毎回、そういうふうにご自分で描かれていたんですか?
 

山内:そうそう、大概。どんな絵を描くか、文字だけとか、いろいろあるけど、これもそうだね。それは普段からで、自分で、いたずらするというのか。
 

伊藤:じゃあ、監督も結構楽しみながらやっていらっしゃるわけですね。
 

山内:楽しんで作るというのは、毎回ですね。
 

伊藤:中も綺麗に色分けされていて。この台本自体が、いかにも小津監督らしくて大変美しいものです。
 

山内:そうだね。いいよね、なかなかね。つまり、そこは、小津安二郎の美意識なんだよ。誰が見るわけでもないけどね。自分だけが大切に使う。この映画は、この俺の、今ここにあるこの台本がすべてのもとなんだと。すべてはここから発するんだっていうぐらいの強い意識を持っているから、台本に愛着がある。
 

伊藤:この段階の台本で、これも小津監督のご本人の字でしょうかね。ここに「小津安二郎」の名前が手書きで残されています。
 

山内:これは本人だね。
 

伊藤:宛名になっている山田隼生(やまだ・はやお)という方はご存じですか。銀座に「東哉」という名前の京焼きのお店があって、その先代のご主人が山田隼生さんです。小津監督は、このお店を待ち合わせ場所に使われていたというお話ですが。
 

山内:しょっちゅう使っていた。そこにいた人だ。
 

伊藤:その山田さんにも台本を送っていたということですね。台本の中を見ると、ごくわずかではありますが、たとえば、山本富士子さんのセリフで、台本に「ほんと、しんどいどすわ」と印刷されていたのが、「ほんまに、しんどおすわ」というふうに訂正されています。それで、もしかしたら、山田さんはご出身が京都なので、京都弁のセリフを確認してもらったのかもしれないと思いまして。
 

山内:それはあったかもしれないね。
 

伊藤:東哉の番頭をされていた北川靖記さんと、小津監督はすごく親しくされていたそうですね。
 

山内:北川さん、そうそう。東哉さんとは、お店でよくしゃべっていました。普通に世間話をして。北川さんは、特別な感じだよね。
 

伊藤:北川さんも三重のご出身ということですよね。
 

山内:そうそう。だから、親しみが全然違うんじゃない? はじめからね。
 

伊藤:山田さんに渡っていたのとはまた別に台本があって、こちらは表に「佐田啓二さま」と書かれています。中を見ると、結構細かく書き込みが残っていて、しかも、山本富士子さんと浪花千栄子さんのセリフにだけ京都弁の直しが入っています。これは、佐田啓二さんが書き込んだものなのでしょうか?
 

山内:それは、中井益子さんだろうね。
 

伊藤:佐田啓二さんと中井益子さんは、お二人ともご出身が京都でしたね。
 

山内:そうそう。だから、みんなであれこれ言いながら直したりしていましたから、誰が言った、しゃべったかはわかりませんけども、でも、この筆跡は益子さんのものですね。
 

伊藤:ペンで書かれているものと、鉛筆で書かれているものがあって、もしかしたら、佐田さんと益子さんがお二人で書いていたのかなと思っていました。たまたま筆記用具が違っていただけかもしれませんが。
 

山内:益子さんの字だわね、これ。間違いなく、そうだね。だから、ほとんどは益子さんだと思いますよ。
 

伊藤:これは、早稲田大学に所蔵されている台本で、中井益子さんの名前で寄贈されていました。
 

山内:佐田啓二も京都の人だから、ちょこっと、この場合はこう言ったほうがいいんじゃないのか、こっちのほうが自然だろうとか、そういうことはあったかもしれませんが、主体は益子さんだったと思います。
 

伊藤:小津監督はご自身の台本のセリフには大変こだわりがあったとうかがっていますが、そういう方言のセリフに関して、より自然な言い方を誰かに聞いてとりいれるということはされていたんですね。
 

山内:ありますね。
 

伊藤:宮本明子さんのご研究の中で、『早春』のときに、里見先生に京都弁のセリフを直してもらっている台本が取り上げられていますが、『彼岸花』でも里見先生に相談しながら書いていたわけですよね。おそらく、京都弁のセリフに関しても。
 

山内:当然、里見のところにもこのホンは行っていますから、頼まなくても直しを勝手にやる人なんで。
 

伊藤:そうですか。だとすると、もしかしたら、里見先生が修正を書き込まれた台本がどこかに残っている可能性もあるのでしょうか。
 

山内:あるかもしれないね。小津先生のところに渡っていれば、そこにあるだろうな。
 

 


山本富士子と京都弁


伊藤:そもそも、山本富士子と浪花千栄子のセリフを京都弁にしようというアイデアは、最初から小津監督にはあったんでしょうか?
 

山内:そうですね。それは、山本富士子を使おうという発想のなかに含まれていたと思います。山本富士子を使うならセリフは関西弁にしようと。
 

伊藤:やっぱり山本富士子さんが関西出身だということは、もう周知のことというか、そういうイメージは当時あったわけですか?
 

山内:ありましたね。だから、山本富士子を使うなら関西弁だろうというのが、何となくあったね。
 

伊藤:たとえば、1956年公開の吉村公三郎監督の『夜の河』では、山本富士子さんは京娘の役をやっていらっしゃいます。だから、当時、京都の女というイメージがあったということですよね。
 

山内:非常に強かった。
 

伊藤:そこで、そのイメージを踏襲しつつ、小津監督なりに今までの大映の山本富士子とはちょっと違う魅力を引き出そうと試みたわけですね。
 

山内:そうだね。それは、小津流の京娘の山本富士子、そういうものを考えていたんだろうね。
 

伊藤:だから、その分、セリフにも慎重になられたのかなと思ったんです。つまり、山本富士子さん自身が京都の言葉をかなりご存じなので、演じてもらうにあたっては台本でもできるだけ自然な京都弁にしたいという思いが小津監督にもあったのだろうと。
 

山内:本人から「ここはこんなふうに言う方が自然です」なんていう案があって、それを小津先生が採用して直したケースだって、たくさんあると思うよ。
 

伊藤:じゃあ、俳優さんの提案を小津監督が聞く場合もあったんですね。
 

山内:提案というか。散々、本読みとかするでしょ。そういうときに、山本富士子が言えば、小津先生が「あー、こっちの方がいいかな」という感じで。
 

伊藤:なるほど。小津監督といえば、神話的に「台本が完成したらセリフは一文字たりとも変えない」というイメージがありますが、実際には臨機応変にやっていらしたんですね。
 

山内:特にこの京都弁に関しては、全然そういうものの枠外だね。
 

伊藤:山本富士子さん自身も後年のインタビューの中で、小津監督は京都弁にはそこまで詳しくないので、たとえば、有馬稲子さんは標準語だから厳しく演出されるけど、自分の方がその点はちょっと得したんじゃないかということをおっしゃっています。
 

山内:それは得していますよ、当然。
 

伊藤:現場で、小津監督が山本富士子さんを演出されているのをご覧になって、他社の俳優だから遠慮しているとお感じになったことはありますか?
 

山内:そんなことはまったくなかったね。
 

伊藤:松竹の俳優と同じように。
 

山内:まったく同じだね。そもそも使いやすかったんじゃないかな、あの人はね。
 

伊藤:やっぱり、『彼岸花』を見ると、本当に魅力的なんですよね、山本富士子さんが。
 

山内:そうでしょ。京都弁のために苦労するとか、この役を京都弁でやるのはちょっと難しいとか、そういう感じは、山本富士子のあの役には全然ない。
 

伊藤:そうですね。すごく自然に演じていらっしゃいますね。
 

山内:すごく自然だよ。あの映画の三人娘のなかで、何たって、断トツに山本富士子が得をしている。それは、この京都弁のおかげだよ。
 

 


浪花千栄子と小津の出会い

伊藤:また、お母さん役の浪花千栄子さんも京都弁で素晴らしい演技をされている。
 

山内:浪花さんも良かったよな。
 

伊藤:『彼岸花』のプレスシートには、浪花千栄子さんもコメントを寄せていらっしゃって、その中で小津監督との出会いについて書かれています。嵐山で経営されていた旅館で、溝口健二監督に紹介してお会いになったと。このときは、山内さんも同席されていたんですか?
 

山内:いた。
 

伊藤:小津監督のその日の日記にも、山内さんのお名前が書いてあります。
 

山内:私、いたね。
 

伊藤:笠智衆さんも一緒に九州旅行へ行って、その帰りに京都に寄っていますよね。
 

山内:竹生(ちくぶ)じゃない?
 

伊藤:そうです。『早春』の公開が1956年1月で、その年の3月20日に京都に来て、「静夫、来ている」と日記にも書いてあります。その翌日に「嵯峨、竹生に行く」「豆腐、美味」と。そのあと、「祇園の比路松、開陽亭」となっていますね。
 

山内:大変だね、飲みっぱなしだね(笑)
 

伊藤:このときも、山内さんはずっと同行していらっしゃったんですか?
 

山内:全部一緒。
 

伊藤:小津監督は、このときすでに浪花さんに対していいイメージをお持ちになったんでしょうか?
 

山内:うん、それは持っていたよ。溝口さんの紹介ということも、小津先生にとってはね。
 

伊藤:溝口監督が亡くなったのはこの年でしたね。
 

山内:うん。
 


小津映画と方言


伊藤:小津監督が方言に関してアドバイスを求めていたケースは他にご存じですか? たとえば、宝塚で撮った『小早川家の秋』(1961年)は、あれは主要な舞台が関西でしたが、ああいう場合にも。
 

山内:あれも、益子さんが手伝っていると思うよ。
 

伊藤:『早春』のときはどうだったんですか?
 

山内:『早春』は、誰だ。関西弁しゃべるのは?
 

伊藤:田中春男さんですね。
 

山内:田中春男だ。あの場合は、そんなに。
 

伊藤:やっぱり、山本富士子に京都弁を話させるのと、田中春男の大阪弁だと。
 

山内:全然違う(笑)それは、作品の中における重要性が違うからね。やっぱりいろいろ、とっても気に入っていましたよね、山本富士子のことはね。
 

伊藤:小津監督が雑誌に寄せたコメントを見ても、山本富士子さんのことをすごく褒めていますね。彼女は天下の美女で、しかも演技の飲み込みも早いと。
 

山内:書いているね。
 

伊藤:『彼岸花』の翌年に大映で『浮草』を撮るとき、もう一回山本富士子に出てもらおうかという話にはならなかったんですか?
 

山内:ならなかったね。
 

伊藤:『浮草』では京マチ子と若尾文子が出ていますね。
 

山内:それは、もうはじめから決まっていたね。永田さんにお世話になって、松竹で自分の映画を作って、相当無理を言ったんだから、大いに大映のスターにはサービスしなきゃという気持ちは、大いにあったと思うよ。
 

伊藤:永田社長と小津監督は、普段からお会いになることはないわけですか? 何かの集まりで顔を合わせるようなときだけで。
 

山内:そうそう、そういうときだけですよ。五社協定の関係なんかで、小津さんは監督協会の要職でしたから、そういうことで永田さんと会う機会はね。仕事の上の付き合いだね。
 

伊藤:小津監督は、五社協定のような制約はあまりない方がいいというお考えでしたよね。
 

山内:うん、そうだね。

 

小津のサービス精神


伊藤:小津監督は座談会やなにかで、よく小説家や画家と同席されていますね。小津映画が話題になったときは、「あそこに武者小路実篤の絵があったよね」というような非常に細かい指摘を受けたりしています。たとえば、志賀直哉に自分の映画を見てもらうことへの意識は、小津監督のなかでは大きかったのでしょうか?
 

山内:それはやっぱり特別なものだよね。
 

伊藤:小津監督の映画にしばしば登場する「若松」という料亭にはモデルがあったそうですね。
 

山内:うん。通っていたお店ですよね
 

伊藤:そういう、自分の身の回りというか、私生活の中で参考になるものはどんどん映画に取り入れる方だったんですね。
 

山内:そうそう、実際に使っていたところをそのまま使うというようなことはよくありましたね。それは、小津先生の気持ちとしては、自分たちが普段世話になっているから、映画に出したら喜ぶかなと。そういうサービス精神を持っていましたね。

2018年7月23日(月) 鎌倉の山内静夫氏の自宅にて


(いとう・ひろのり)1988年生まれ。愛知県出身。映画批評家=研究者。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。関西大学文学部非常勤講師。「國民的アイドルの創生――AKB48にみるファシスト美学の今日的あらわれ」(『neoneo』6号)で「映画評論大賞2015」を受賞。専門は小津安二郎。

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