top of page

012

山本富士子 インタビュー

戦後初のミス日本としても知られ、『彼岸花』ほか映画黄金時代の傑作に多数出演した大女優、山本富士子。コロナ禍のため手紙でのやりとりとなったが、当時の稽古方法など、今まで語られていない話も教えていただくことができた。

出典:小津安二郎監督『彼岸花』松竹株式会社、1958年。

yamamoto3.1.jpg

 まず、簡単に『彼岸花』で山本が演じた役のおさらいをしておきたい。

 作品では、平山一家(父:佐分利信、母:田中絹代、娘:有馬稲子)が描かれる。そこに京都から佐々木家の母娘(母:浪花千栄子、娘幸子:山本富士子)が訪れ、山本が有馬の結婚を助ける、といった話だ。山本は結婚成就のための重要な役を担っている。

 

 大映専属の山本は当時専属制度の厳しい中での初の他社作品への出演だったが、それまでの作品とは違った喜劇的な役を演じた。喜劇的な役を演じることには反対の声もあったようだが、小津は変更せず、山本も見事に演じ、新たな一面を開花させている。

 

 なお、以下本文における小津との出会い、出演の感想、撮影のエピソードと打ち上げの話は、先方とのやりとりから、山本による2018年豊田市での講演原稿を組み込み編集した(一部表記を修正した)

・・・

 

 

ーー小津監督との初めての出会いは、いかがでしたか。

 

 先生とは、大船の松竹撮影所のスタジオの前で初めてお目にかかりました。もう緊張でコチコチになっている私に、先生は、本当に温かい、優しい笑顔で色々話しかけて下さったのですが、私はもう夢中で舞い上がってしまって、何をお話ししたのか全然覚えていないんですよ。ただ、真っ白なワイシャツに、真っ白なピケの帽子、グレイのズボン姿のおしゃれでダンディーな優しい先生の笑顔は、今もはっきり浮かんでくる程、鮮明に覚えております。

 

――初めての松竹映画出演でしたが、いかがでしたか。

 

 まず驚きましたのは、今迄、大映では、撮影に入る時は、いきなり、スタジオから始まるという形でやってきましたが、この小津作品の時は、まず、最初に、出演俳優、スタッフ全員が一同に集まって、本の読み合わせから始まりました。

 もう、一同、大変な緊張感の中で、小津先生から、台詞の上げおろし、台詞の切り方、間の取り方など、全員にご指導がありまして、私もドキドキしていましたが、京都弁の役の私は、比較的自由に喋らせていただきました。

 小津先生は、京都弁に一寸弱かったんですね。それで、この読み合わせは、私にとりまして、とても新鮮な驚きと、大変勉強をさせていただきました。

 そして、後半、テレビや舞台をやるようになりました時に、テレビも舞台も、必ず、読み合わせから入りますので、この時の経験が、とても貴重な勉強になりました。

 

――(山本富士子演じる)佐々木幸子は、美しい中にもお茶目、したたかな面があり大変魅力的です。友人の結婚のために一芝居打つところなどとてもすてきです。この幸子の役作りについて、小津監督とどのようなお話や打ち合わせをされましたか。

 

 小津先生は役作りについて何もおっしゃいませんでした。

 特別な打ち合わせもありませんでした。

 ただ、まず最初にスタッフ、俳優全員が集まって本読みがありました。

 その時に先生から台詞の間、イントネーション等、厳しくだめ出しやご指導が一同にありました。俳優達も勿論しっかり脚本を読み込んできていますが、小津先生は各俳優がどういう役作りをしてきているのかを感じとられていたのだと思います。それだけに俳優自身がしっかりと本を読み込み、役を把握することが求められたのだと思います。

 私は、この役をいただいてまず思いましたことは、これまでの小津作品の中に余り登場してこなかった、多少、異質な親子の存在を如何に小津先生の世界の中で作風の流れの中ではみ出さずに溶け込んでいけるかということを考えました。そして、それを大切にしなければ、と思いました。

 そして『彼岸花』が昭和33年の作品で、その前に昭和31年に撮りました大映作品、吉村公三郎監督の『夜の河』が大ヒット致しまして、私の代表作のように評価をしていただきました。その作品が、やはり、京都の女を描いたものでして『彼岸花』の娘役とは全く違う役柄ではあったのですが、その京言葉が非常に印象的に受け止められたものですから同じ京言葉でも『彼岸花』の幸子の場合、全く違う話し方をしたいと、随分喋り方を考えました。例えば、一般的に京都弁のゆったりとした話し方をやめる。

 京言葉の持つ情緒的な柔らかなニュアンスをむしろ無くす。

 そして、歯切れよく、テンポよく、若々しく話す。そんな語り口をしたいと思いました。私は、大阪出身でして、京都は数年しかおりませんでしたので『夜の河』の時、京都ご出身の(吉村監督は滋賀で生まれ、2歳から京都に引っ越された。)吉村監督に京言葉、京女のことなど色々と教わり、勉強になり、その後、京都の女性を演じる時には大変役立たせていただきました。

 

――山本様は当時、演技や発声練習のためにどのような稽古をされましたか。

 

 私は昭和28年に、芸能界には全く関係のない普通の家庭の娘から映画界に入り、大映の専属となりました。

 デビュー作品『花の講道館』では、いきなり大スター長谷川一夫さんの相手役となり、西も東も分からないまま、ただもう無我夢中でスタートを切りました。そして、デビューから毎年、一年に10本以上の作品に出演し、日々追われ続け、与えられた一本一本の作品によって様々なことを覚え、学んでいかなければならないという本当に厳しい状態でした。それは、映画界に在籍した10年間、毎年、10本以上の作品に出演し、特に昭和33年の『彼岸花』を撮った年は、年間15本の作品に出演しています。

 それこそ寝る暇もない超過酷なスケジュールの中で特別に何かをやるということは、全く無理な、不可能な状態でした。

 ただ、映画時代に歌をやることになり、作曲家古賀政男先生にレッスンを受け、発声の練習など始めました。

 それと、私は子供の頃から「日本舞踊と長唄」を習っていましたので、特に時代劇の場合や体の動き方等などを助けてくれました。

 今、思っても一本一本の作品の中で多くの名監督さんや先輩達との出会いがあり、本当に色々なことを学び、覚え、心身共に鍛えられたと思います。

 昭和39年から舞台をやるようになって、そこから本格的に夫、作曲家山本丈晴の協力のもと、発声練習をするようになりました。

 それから、随分声の幅を広げることができました。以後、発声練習はずっと続けております。滑舌をしっかりするための練習もしています。 

 

――撮影時、印象に残っている場面や特に難しかった場面などをお聞かせ下さい。

 

 各場面やカットに於いて細かいことは色々ありますが、そんな中で、作品の中では母一人、子一人で、京都で旅館業を営む親子の生活ぶりは、場面上、余り出てこないのですが、個性的な母親との日常生活のやり取りなどを佐分利信さん演じられる平山に幸子が話す場面があります。

 その時、明るい中にもほんの少し心の葛藤と哀感を漂わせたいと、台本にはなかったのですが表情に出したいと思いました。それによって、幸子親子の生活に少し深みが出るのではないかと思った場面のことをよく覚えております。

 そして、場面的に難しいというより全体的に小津先生独特のローアングルのカメラの位置。正座の多い端正な佇まいの中で、身振り、手振りなど余計な動きを一切しないように、などのご指導がありましたが、幸子は特に明るいお茶目な役柄なので、ついつい動きたくなるのですが、そこを抑えて抑制された中であの役柄を演じる難しさを感じました。

 そして、大変勉強になりました。

 

――小津監督には色々こだわりがあったと思いますが、教えていただけますか。

 

 スタジオでは、私語は一切禁止。ピーンと一本の糸が張ったような緊張感に包まれていましたが、でも怖いというのではなく、先生の優しさや、温かさが、スタジオには溢れておりましたね。それと構図への大変なこだわりがおありになって、時には、カメラマンより長くカメラを覗いておられました。それに、本物志向で、スタジオに置く道具類も、さりげなく、いい物が置かれていました。

 それと、先生は赤い色が大変お好きで、「赤は命の色だから」とおっしゃっていました。

 『彼岸花』の平山家の居間にも、いつもどこかに赤いケトルが出てきましたよね。

yamamoto4.1.jpg
yamamoto_a1.jpg

平山家の場面で赤いケトル(薬缶)が見える

出典:小津安二郎監督『彼岸花』松竹株式会社、1958年。

小津に演出を受ける山本(左:山本、右:小津)

出典:井上和男編『小津安二郎・人と仕事』蛮友社、1972年、627頁。

――撮影中に小津監督とどんなお話をされましたか。

 

 或る日、撮影の合間に、先生とお話ししておりましたら、先生が「120%、100%やろうとしなくていいんだよ」とおっしゃったんですね。私は120%、100% やりたいと思っていましたので、先生の言葉をよく考えて、噛みしめて、自分なりに、それは、役柄をしっかりつかんだ上で、自然体で演じることではないかと理解をしました。

 それから、無駄な動き、余計な動きはしないこと等教わりました。

 

――小津監督との思い出、エピソードをお聞かせください。

 

 たくさんありますね。昭和30年代は、日本映画の全盛期で次から次へと作品に追われ、私も一年に10本以上の作品に出演するという、超過酷ともいえるハードスケジュールで、いつも、夜間撮影は当たり前、徹夜も当たり前ということでやってきましたが『彼岸花』の時は夕方5時になると、小津先生がスタジオから出られて「これからミルクの時間だよ」と嬉しそうなお顔でおっしゃるんです。そして、夕方5時に撮影が終了するんです。

 私は、本当にミルクをお飲みになるんだと思っていましたら、スタッフの方が「ミルクはお酒のことです」と教えて下さったんですね。先生は本当にお酒がお好きだったようです。でも、その有難いミルクの時間のおかげで、徹夜も夜間撮影もないという、当時では考えられなかった嬉しい、幸せなミルクの時間を経験することが出来ました。

 

――撮影が終了した夜、「お別れ会」があったそうですね。どのようなものでしたか。

 

 原作者の里見弴先生の鎌倉のご自宅で開いて下さいました。

 先生は、ほろ酔いの上機嫌で、白いシーツを身体に巻き付けて「カチューシャの唄」を歌い、踊って下さったんです。もう、私は最高に楽しくて感激しました。

 当時の私は、お酒は一切飲めないということで通しておりましたので、この夜もオレンジジュースを飲んでおりました。

 本当は飲めたんですけどね。

 そんなことで、あの時、小津先生とお酒を酌み交わす幸せを逃したことを、今も、とても残念に思っております。もし今だったら、ご一緒にジャンジャン飲んで、先生と「カチューシャ」を歌い、踊っていたかもしれませんね。

 そして、その夜、その場から、次の撮影のために夜行に乗って京都に向かいましたが、感激と興奮で一睡もできなかったことを覚えております。

 そして、その後、お礼のお手紙に「今さらながらミルクの時間を懐かしく思い出しております」と書きましたことも覚えております。

yamamoto9.1.jpg

小津にお酌する山本

出典:山本富士子『いのち燃やして 山本富士子』小学館スクウェア、2005年、47頁。

ozu_dance1.jpg

踊る小津

出典:井上和男編『小津安二郎・人と仕事』蛮友社、
1972年、245頁。

――小津監督から、贈り物もあったと伺いました。どのようなものでしたか。

 

 撮影に入る前には、どの作品でも衣裳調べというのがありまして、監督、俳優、衣裳さん達と、衣裳を選ぶのですが、『彼岸花』の時は、小津先生が事前に私の衣裳を全部選んで下さっていました。その中のファーストシーンで着た、浦野理一さんという着物作家の方の着物を、撮影が全て終了した後、記念にとプレゼントして下さいました。

 その時の嬉しかったこと、感激したことは、今も忘れることができません。

 今も、私の大切な宝物でございます。

 

――撮影中、丈晴様の手術が成功したとの報を受け感涙されたと伺いました。このときの様子を詳しくお聞かせいただけませんか。

 

 夫、山本丈晴の手術の話になると、何故、手術に至ったのかということからお話しなければと思います。

 ただ、昭和30年の出逢いの年から昭和37年の結婚に至るまでの7年間は紙面では書き尽くせない程の経過と思いがあります。しかし、今回は小津先生とのことがテーマだと思いますので簡単に手術に至るまでの経過を書かせていただきます。

 私は、昭和30年の末に歌をやることになり、大作曲家、古賀政男先生のご自宅に初めてお伺いすることになりました。そこで、出逢ったのが丈晴さんでした。初めて出逢った時から二人は鮮烈な印象と運命的な出逢いを感じました。

 当時、丈晴さんは古賀先生の音楽の弟子であり、養子となっていました。その後、レッスンを重ね、レコードを出すことになりますが、その間、お互いに心を通わせ合い、結婚をしたいと心を決めました。

 しかし、古賀先生は丈晴さんに自分のあとを継がせたいから「富士ちゃんが古賀家にお嫁に来てほしい」ということだったのですが、私の両親は、私の姉がすでに結婚をして外に出ているので山本には、私一人しかおらず私に山本を継がせたいため、お嫁には出せないと両家の話し合いがつきませんでした。

 そして、当時、丈晴さんは結核にかかっていましたので、その事を一番心配して反対をしていました。そんなことから二人は会えなくなってしまいます。その間には、私のことがあって丈晴さんは古賀家を出て山梨の実家に戻ってしまいます。

 私の方は父が亡くなり、母と二人きりになってしまいました。

 ただ、丈晴さんから、もし何かあった場合、ここに連絡をして欲しいと実家の住所を渡されていたことから再会を果たすことができました。そして、反対をしていた父が亡くなり、母は元々は丈晴さんの人柄を信頼していましたので、交際を認めてくれました。

 丈晴さんは、私と結婚するためには、どうしても健康を取り戻さなければと手術をする一大決心をします。しかし、それは、肋骨4本を切除し、背中を30数針縫うという生死をかけた大変な大手術だったのです。手術が決まった前日「もし手術が成功して健康を取り戻せたら結婚をして欲しい。」というのがプロポーズの言葉でした。

 この頃の私は、自分の時間が殆ど持てないような毎日であり、そこへ初めての松竹への他社出演。しかも小津安二郎監督作品への初めての出演と女優として最も大変な、大切な時期が丈晴さんの手術と重なってしまいました。

 大映との契約で撮影期間は35日と限られ、私は、大船の旅館に缶詰状態で撮影にのぞんでいました。そんな状態で慶應病院で手術を受ける丈晴さんを見舞いに行くことも出来ず、本当に表現しがたいほどの辛い思いを心の中に抱えていました。

 丈晴さんの兄から手術が無事終わったことを夜、旅館に電話で知らされました時は受話器を握りしめて涙が止まらないほど泣きました。

 このことは、あくまでプライベートなこととして当時、一切公表もしませんでしたし、誰にも話しませんでした。丈晴さんの家族と私の家族のみが知っていました。

 女優として最も大切な時期。しかも心とは裏腹に明るい役を演じなければならない辛さを今、思ってもよく乗り越えられたと思います。ただ、そんな辛さがかえってバネとなって何としてもここを乗り越えなければという強い思いが私を助けてくれたのだと思います。その後、長い入院生活を終えて、手術をして下さった先生から3年経って再発しなければあとは、絶対大丈夫だから、という言葉をいただいて、しっかり3年待って昭和37年、出逢ってから7年目にやっと結婚することが出来ました。

 

――試写会は参加されましたか。

 

 『彼岸花』の私の部分撮影が全部終了しまして、打上げ会のその場から私は次の大映作品の撮影のため京都へ向かいましたので、試写を見ることは出来ませんでした。

 

――他の俳優やスタッフとの思い出があれば教えてください。

 

 『彼岸花』の撮影に於いては、私の撮影日数が35日と契約で限られていましたので、まず、私の出演場面ばかりを抜き撮りして先に撮影を終わらせるというスケジュールでした。

 役柄で絡むのは、佐分利信さん、有馬稲子さん、浪花千栄子さんの3人だけで多くの出演者の皆さん方とは本読みでお会いしたままでした。

 浪花千栄子さんとは、それ迄にもご一緒したりしていますので親子の役をやれましたことはとても嬉しくてほっとしましたし、大変心強く思いました。ご一緒するのが楽しかったです。残念だったのが憧れの大先輩、田中絹代さんとご一緒の場面がなかったことです。

 

――ご結婚の際やフリーになられたとき、小津監督から何か連絡はありましたか。

 

 『彼岸花』撮影後、私は、また作品に追われ続け、再び小津先生にお会いする機会がありませんでした。

 その後、私がフリーになりました時に五社協定の黒い霧といわれ、当時、社会的にも問題になったことに巻き込まれ映画界を去ることになりました。

 小津先生とは『彼岸花』一本でしたが、むしろ亡くなられてから各地での『彼岸花』上映会や講演会や、記念碑の建立の折。先生を偲ぶ会など。また、義妹に当たられる小津ハマさんが、毎年お庭に咲く彼岸花の切り花を送って下さるというハマさんとの交流を含めて先生とのご縁が深まった思いが致します。

 たった一本の作品でしたが、私の芸能生活に於いて強烈な印象と女優としての宝物を残して下さった忘れられない大切な先生です。

 

 

 

 

 

編集後記

 以上多くのお話を伺うことができた。当時の俳優としてどのような稽古をされていたのかという問に、日本舞踊と長唄はしていたが、演技の稽古で特別なことはしなかったとお答えいただいたのは驚きだった。踊りと発声の基礎ができていれば、一流の監督のもとでの実践が、最高の稽古だったのだろう。最後になるが、山本が小津の言葉を書き留めておりご紹介いただいたので掲載したい。

 

(小津先生がご自分の作品についておっしゃられたこと)

  人生の真の味は、日常性の中にあり、生活の襞の中にある。

  日常性の中に、ものの哀れ、人生の深い味わいを描く。

  平凡な生活の中にある人生の味と真実をとらえる。

(小津先生の生活信条)

  何でもないことは 流行に従う

  重大なことは 道徳に従う

  芸術のことは 自分に従う

 

 

(聞き手・構成 松浦莞二、宮本明子)

ozu_logo05.png
bottom of page