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小津安二郎の俳句を読む 1 宮本明子

「プレバト!!」が人気だ。料理や水彩画など、様々なお題にゲストが挑戦するテレビ番組である。その中に、俳句のコーナーがある。テレビで俳句なんて盛り上がるはずはなさそうだが、これがおもしろい。ダウンタウンの浜田雅功が盛り上げ、俳人・夏井いつきが多数のゲストに切り込んでいく。そう、俳句は自分で詠むだけでも楽しいが、だれが詠むのか、どう詠む(読む)かもまたおもしろいのだ。
 映画監督、小津安二郎も俳句を詠んでいた*1。それはどんなものだったのだろう。以下わずかに、小津の詠んだ句を振り返ってみよう。

 いづこにか夕立ありし冷奴

 僕はトウフ屋という、小津安二郎の発言がある。諧謔も込めて自身をトウフ屋になぞらえたのだが、この発言が一人歩きして、小津の生き方や精神が豆腐に重ねられるようになった。その意味はさておき、ここではさらりと豆腐を詠んでいる。
 どこかで夕立があったようだ。それを詠んだ句なのだが、いづこにか夕立ありし、と冷奴が感じているようにも思えておもしろい。そのつるんとした直方体が夕立を感じているように思えたのだ。そう読めるのも俳句の妙である。
 この句は小津の、1935年8月4日の日記に記されている*2。厳密には、一つの句の中に夕立と冷奴、二つの季語が入るのは避けるべきとされている。しかし、どちらも堂々、共存しているのがいい。湿度からか、聴覚からか。どこから夕立の気配を感じたのかと想像させるのもまた楽しい。

 時代は少し下って、小津は国策映画『デリーへ、デリーへ』*3撮影のために派遣されたシンガポールでも俳句を詠んでいた。
 シンガポールで小津が様々な記録を残した手帳がある*4。文学をはじめ、絵画、能楽、歴史など、多岐にわたる記録が残されている。ここに、松尾芭蕉や正岡子規、俳句の季題などが記されている。連句についての覚書もある。連句とは数人で句を重ねていくもので、五七五の句の後に七七の句を、さらに五七五……と交互に付けてゆく。小津は実際に、シンガポールに抑留していた仲間と連句を試みていた。連句については別稿に譲るとして、ここでは俳句をたどってみよう。
 手帳には、小津が「塘眠堂雑句一」と標題を付けた38の俳句が並んでいる。書き出しに「鶴八といへる老妓あり」と、人物の説明がある。続く第一句に、今は芸妓から引退したのだろう、その鶴八と菊が詠まれている。彼女がいるのは菊日和、穏やかな秋の日のようである。第二句も、同じく菊を詠んでいる。

 鶴八が白髪そむるや菊日和

 四谷より菊もらひけり明治節

 ことばが文脈において意味を持つように、第一句、第二句も戦時には異なる意味を持っただろう。明治節は明治天皇誕生日、今では文化の日と制定されている。「菊」の一字が国家、天皇を寿ぐようにも読める。しかし、秋ののどかな日を詠んだだけにもみえる。
 以上に触れた句の最後には、こんな文章が記されている。「一国の文化と云ふものハ、なにげない国民の平常の姿に出てゐなくてハいけません。平常の生活が美しくあつてその国の文化ハたのしいのです。さうして日本はあくまで日本らしい秩序ある美しさを持つやうにならねバいけません。」小津の言葉だとすると、なぜこれを記したのだろうか。

 ところで、「塘眠堂雑句一」の「塘眠堂」とは小津の俳号である。漢詩、朱熹・偶成の一節とされる「池塘春草の夢」からとられたのだろう。青春時代、春の堤の草の上にみた夢--。『彼岸花』(1958年)や、小津が里見弴と脚本を執筆したテレビドラマ『青春放課後』(1963年)にも、この漢詩の一節が言及される。初老を迎えた男たちが来し方を振り返る場面だ。塘眠堂とは、春の風を感じながら、堤や土手に眠るというあたりだろうか。なんとも魅力的な俳号である。こうしてもう一つの名前を得て句を詠むことが、小津にとって戦争のさなかの思索や息抜きになっただろう。

(付記)塘眠堂の解釈については、『小津安二郎 大全』に掲載された紀本直美氏との対談から多くの示唆を受けました。

*1 『文藝別冊 小津安二郎』増補新版(河出書房新社、2020年)に、現在確認できる小津安二郎の全俳句223句が掲載された。松岡ひでたかによる解説とともに、小津の俳句を一覧できる。
*2  田中眞澄編『全日記小津安二郎』(フィルムアート社、1993年)から引用した。なお、日記は複数あり、この句は日記「その2」では1935年8月3日に記載されている。
*3 オン・トゥー・デリーなどの呼称もある。
*4 貴田庄編纂「文学覚書」『文学界』2005年2月号、文藝春秋、138-177頁。貴田庄によれば、1943年6月から1946年1月までに書かれたと推測される。

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