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小津安二郎研究雑記06-09(2022年1月) 松浦莞二

小津安二郎研究雑記06:視点
 

 「小津といえばロー・アングルからの撮影」と言う人がいる。「それは正しい表現ではない、ロー・ポジションからの撮影が正しい」と言う人もいる。どちらが良いのだろう。もしどちらかを選べと言われれば、私はロー・アングルと答えている。

 

 ロー・アングルは、低い視点といった意味だから、これで何ら間違いはない。しかし、ロー・アングルというと、やたらキャメラをあおっている様に誤解する人がいる。小津の撮影はほぼ水平で少しあおっている程度。覗き込むような角度ではない。ロー・ポジションと表現する人がいるのはロー・アングルだと誤解を招くことがあるからなのだ。

 

 ロー・ポジションという表現は、和製英語ではあるが、撮影現場でも実際に使われている。ではこれで良いかというとそうも簡単ではない。立っている役者のバストショットを、小津がどう撮影するかを想像してみて欲しい。キャメラは役者の胸あたりの高さに据えられる。役者の身長にもよるが100〜120センチくらいの高さだ。地面から100〜120センチに据えられたキャメラ。これはとても低い位置にあるとはいえない。小津はロー・ポジション、という表現は正確さに欠けているのだ。

 

 誤解を生むかもしれないが正しい表現「ロー・アングル」。誤解を避けるつもりが正確さに欠ける表現「ロー・ポジション」。どちらかと聞かれたら前者が良いように思う。誤解を避けたいなら「ロー・アングルだが、あまりあおっていない」と表現するのが良いだろう。もっとも、二者択一でないなら「低視点撮影」と言ってみたい。無理して横文字を使うこともないのだから。

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キャメラを大きくあおるのがロー・アングルと思う人もいるが誤り。右はロー・アングルの典型例としてしばしば例に挙がる『市民ケーン』の撮影風景。床に穴を開けての撮影だがキャメラをさほどあおってない。視点が低く水平より上方向を向いていることがロー・アングルの定義。

 

出典:左:『市民ケーン』(1941)RKO Radio Pictures、Mercury Productions 右:RKO Radio Pictures, still photographer Alexander Kahle - International Photographer, Volume XII, Number 12, January 1941 (page 6)より補正

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『非常線の女』撮影風景から。俳優のバストショットを撮影しているが、キャメラの位置は低くなく、「ロー・ポジション」とは言えない。

 

出典:左:小津安二郎監督『非常線の女』松竹株式会社、1933年。 右:撮影の様子(出展不詳)。

小津安二郎研究雑記07:仰望
 

 小津はキャメラを水平からやや上向きに構えて撮影した。人を見下ろすのが好きでない、また、こちらの方が見やすいからだ、と小津は言う。見下ろさないという考えは分かりやすいが、後者はどういうことだろうか。

 

 まず、人を見下ろす構図だと、画面に机の上や床が大きく映ってしまう。そうなると、机や床の上にあるものが多く映り、画面を煩雑にしてしまう。低視点から人物を捉えると、余計なものがあまり映らず、清潔感のある画面になる。このすっきり見やすい感じが小津の狙いにあっただろう。

 

 また、今の映画館は客席が大きく傾斜しており、後方の座席は画面を見下ろす位置にあることも珍しくないが、昔は客席にそれほど傾斜がなく、観客は皆やや上向きに銀幕を見ていた。その見上げる位置には、やや見上げた角度で撮影された映像の方が自然に感じられ見やすい。小津は自然に映像が頭に入るよう計算し、画面作りをしているのだ。

 小津のこしらえた映画をテレビやPCで見るなとは言わないが、その際は少し見上げる位置に画面を設置していただきたい。小津の意図に近い体験になるだろう。 

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撮影時の角度と鑑賞時の角度が近いので混乱する事がない。

小津安二郎研究雑記08:焦点

 

 『秋日和』に奇妙なショットがある。父親(北竜二)と息子(三上真一郎)が向かい合い父の再婚について話している場面で、再婚しようと思うんだ、すごいじゃないか、などと話しているショットだ。

 息子の背中越しに父親が見えるのだが、普通なら話している側に焦点が当たるところ、父親の顔は常にややボケており、その代わりに表情の一切見えない息子の背中に焦点が当たってしまっている、なかなか奇妙なショットだ。

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『秋日和』より。なぜか顔の見えない息子に焦点がきている。

出典:小津安二郎監督『秋日和』松竹株式会社、1960年。

  これは撮影操作における誤りだろうか。可能性を完全に排除できないものの、難易度の高い撮影ではないので少々考えにくい。意図があるとしたらそれは文字通り息子に焦点を当てたかったのではないかと思うが、どうだろう。

 小津の晩年の作品は、老いることや、その寂しさや汚さに主題が移ってくるが、それだけではないのではないか。小津は、『東京暮色』は娘ではなく置き去りにされる親を描きたかった、と述べている。それと同じように、『秋日和』は実は老いた親世代の話ではなく、焦点を当てようとしたのは息子世代なのではないか。そんなことを考えても面白い。

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