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出川三男が語る『お早よう』の美術
――1959年の『お早よう』で美術助手についた経緯を教えてください。
松竹の撮影所が、蒲田から大船へ移転してきたのが1936年1月。同月に小生も生れており、撮影所と共に同じ年を重ねてきました。
高校・大学時代、人間国宝の民芸染色家:芹沢銈介さんの工房でずっとバイトをしていました。芹沢さんが小津組の美術監督:浜田辰雄さんと懇意にしており、後に浜田さんに紹介して頂き撮影所に入りました。1958年、多摩美術大学3年の秋のことでした。番匠義彰組の正月作品につきました。
そして、1959年の1月から4月まで、『お早よう』に浜田さんのセカンドの助手としてつきます。撮影で大学の卒業式にも出席できませんでした。
その後浜田さんには何本か助手でつきましたが、小津組は『お早よう』1本のみです。小津組にはもともと美術助手の荻原重夫さんという、小津組専属の全てを知り尽くしているベテランの方が長年ついていました。セカンドの助手がついたことはその後もありません。『お早よう』についた小生は多分ミソッカスで、浜田さんが一度小津組を体験するため配慮してくれたのだと後に思いました。
オープンセットでの二人の写真(左が出川、右が荻原)。
荻原が作ったと思われる台本表紙。
――もっと大規模な美術スタッフ編成かと思ったのですが、当時の小津組は、基本は美術監督とその助手一名なのですね。小津監督の第一印象はいかがでしたか?
監督の第一印象は、風格と威厳のある優しい年寄りでした。決して怖い印象はなく、撮影中に大声を出したこともありません。
――撮影中の監督の様子はどうでしたか?
スタッフ全員がキャメラの後ろに座り、シーンと静まりかえったセットの撮影現場独特の雰囲気や、当時55歳の監督が既に大人(たいじん)で皆に尊敬されており、時には朝セットに酔ってフラフラしながらもいつものようにきちんと演出していたことなどを思い出します。その後5年ほどの間に35本近く助手についたけれど、やはり忘れられない1本となりました。
残念だったのは最後まで小津監督に名前を覚えてもらえなかったこと。助手の時はまず監督に名前を覚えてもらい呼ばれることが大切です。新人だったので仕事のことで呼ばれることはまずないのですが。撮影の最後に小津さんが、小道具で使用した小津さん持参の有名画家の絵を浜田さんに進呈しようとしました。その時、そのことを僕に伝えようとして、指差し「ちょっと、おい、そこの?」と呼ばれたことがありました。
――名前を呼ばれなかったんですね。小津監督といえばスタッフを大切にすることで有名ですよね。その日は小津監督は記憶が飛んだのでしょうか(笑)。小津組の美術といえば浜田辰雄さんで、長く小津組についていましたね。浜田さんはどのような方でしたか?
浜田さんは僕の恩師で、僕は弟子でもあります。宇和島の吉田町出身の浜田さんは、温厚、朴訥、お世辞など言えぬ真面目な人でした。家も電車で3駅と近いのでよく遊びに行きました。当時の美術部は長く在籍していた浜田さんに全員一目おいていて、先輩たち13人よくまとまっていました。浜田さんは1967年の中村登監督『智恵子抄』を最後に引退しました。
今思い出すのは撮影が終わった帰り道、横浜で降りワインやビール等ずいぶんご馳走になったことです。吉田喜重監督の『秋津温泉』では岡山県津山の山間の奥津温泉に、冬、桜の時期、夏と通いました。冬ロケの後暫く撮影がないので、浜田さんに連れられ倉敷見学に行き、その後高松の友人宅に2人で泊めてもらったのですが、どうも様子がおかしく何か不自然でした。実はそこは友人の芸者の妾宅だったのです。翌日2人はゴルフヘ。僕は若い妖艶な着物姿の芸子の案内で金毘羅や栗林公園を回り、翌日さらに小豆島も見学しました。全て浜田さんに面倒を見てもらった楽しい思い出です。
――当時の美術の編成を教えて下さい。
松竹では当時、美術助手は基本的に1人、見習いとしてセカンドにつくことはよくありました。大作の時はセカンド、サード、フォースとつきます。小林正樹監督の『人間の條件』等はずっと2人でした。
松竹は複雑なセットの時は展開図を何枚も書きますが、ほとんどは平面図とスケッチ風の絵で説明し、必要な時だけ寸法を入れていました。日本家屋が多く、ベテランの大道具の親方さん達はよく知っていて、棚等の寸法で悩んだ時等は書き入れなくても上手に収めてくれたものです。
余談ですが、美術助手はデザイナーについて認められたあと初めて採用されていたので、入社試験はありませんでした。
――小津作品のセットは何日くらいで作っていたのでしょうか。
装置(大道具)は何百人もの人がいたので、小津組の平均的なセットで1週間~10日位、装飾(小道具の飾り)に2日ほどです。その後、監督が下見します。
小津さんはよく日本間の低位置でキャメラの両脇に襖をなめます(画面の手前両脇に襖を配置する)が、そのために通常の3分の1の幅しかない、幅の狭い特殊な襖を用意していました。
装飾の倉庫には、小津組がよく使用する専用の家具類が置いてありました。
助手の時は何といっても責任がないわけで、気が楽でした。撮影にはセットはもちろん、何の用事のない地方ロケでも全て参加しました。助手にセットのデザインを手伝わせることはなかったですが、コピー機がなかったのでデザインを写し取り平面図を監督に渡していました。後はデザイナーの言うとおり動き、看板のデザイン等に工夫を凝らしたものです。小津組の看板は、原寸大に書いた文字を荻原さんと2人で監督のOKを貰いに行きました。いつも簡単にOKが出たのですが、それは荻原さんが監督の好みの文字を熟知していたからです。監督が自ら文字を書くこともあったようです。
――小津作品の看板は特徴的ですが、小津の好みをよく知っていた方がいたのですね。看板といえば、佐田啓二と久我美子が電車を待っている場面がありますね。その駅のそばに、『お早よう』でよく出てくるオナラに関連のありそうな、やきいもの看板が映ります。ロケ撮影だと思うのですが、これも作った看板でしょうか。
やきいもの看板は偶然です。看板のデザインを描いた記憶がありません。
やきいもの看板。小津が設置したものではないという。
――セット制作にかかる日数ですが、1つのセットに1週間~10日くらいということでしょうか。
大きさによっても違いますが、1杯(1つ)のセットの建て込みが終わり、エージング(汚し)、造園、背景の作成等で7日~10日位かかります。当時は多くの本数の作品を作っていたので、撮影が終わると翌日すぐ小道具と大道具をバラし、次の組の建て込みにかかっていました。
――看板の他に小津組の美術の特徴があれば教えてください。
他の組との違いは特にありませんが、大道具さんが小津組には気をつかって、柱などに節がないものを選んでいました。基本的に家の中は全てセット、家の表は撮影所内のオープンセットです。
――本棚にある本も小津監督が選んでいるのでしょうか。
本棚の本は小道具倉庫にたくさんありましたが、飾る本はその人の性格、趣味、人物像をあらわすもので、必要な時は毎回決まった古本屋から選んで借りて来ていました。『お早よう』でも当然美術が最善を尽くして選んでいるわけで、監督の指示はありませんでした。当時の小道具倉庫には「ゆりかご」から「棺桶」まで何でも揃っていました。
――プロデューサーの山内静夫は、本棚の本も監督がしっかり確認していたと言っていましたが、選んだり借りたりするのは美術が担当していたのですね。
それから、ご存知かもしれませんが、小津組のセットでは、部屋から見える景色に空を見せていません。一般的には、背景のホリゾントを空色に塗るなどして空を作るのですが、小津組では隣の家を作るなどして空が見えないようにしています。普通、窓外の景色は遠くの空を見せて開放感を出すようにしています。なぜ徹底して見せなかったのかわかりません。多分嘘を嫌ったのかもしれません。小生の記憶では『早春』で池部良と岸惠子が海辺の宿に泊まった朝のシーンで、チラッと空を見せているのを覚えています。
また、主役の家の全景を映していません。普通、その家の全容を見せて、スタイルや大きさ、規模を観客に知らせるのですが。例外を一つ挙げると、『麦秋』で二本柳寛の家の表はロケで、道沿いの家の玄関に直接入っています。
――確かにどんな家なのか、外観はあまり映りませんね。一方、内部はなかなか個性豊かです。三好栄子が家の中の小さな祭壇に向かって、何やらお経のようなものを唱えています。これは何教の祭壇かご存知ですか。
宗教は多分架空の設定だと思います。こういう場合、本物の宗教だといろいろ問題が起きることがあるので。
――なるほど、架空のものの可能性があるんですね。ところで、小津組の撮影は静かと言いますね。
撮影現場が静かだったのは、スタッフが緊張して、監督の一挙一動に集中し、静かに話す妨げにならないようにだと思います。決して居心地が悪い雰囲気ではありません。撮影は淡々と進み、早くもなく遅くもなくその日のノルマを5時頃までに終えます。たまに俳優さんの何が気に入らないのか何度も何度もテストをくり返していました。
――俳優について覚えていることがあれば教えてください。
『お早よう』の時はまだ新人で、とても俳優さんにまで気がまわりませんでした。ただ、小津監督は子どもの撮り方が上手でした。主役の下の子(島津雅彦)が佐田啓二の家でちょっと「ふて腐れる」シーンでは、キャメラを据え子どもを置き去りにして、子どもがふて腐れるまで皆でじっと待ち監督の合図で撮影していました。
――スタッフについて覚えていることがあれば教えてください。
キャメラマンの厚田雄春さんは小津組以外では大庭秀雄組や中村登組を担当していました。小生も両組の助手につくことが多かったのですが、慶大出のインテリで皮肉屋の大庭さんはラッシュ(撮影を終えたシーンの確認のための映写)を見ながら大きな声で「パンが下手だね」と言い、厚田さんは小さくなっていました。
――小津組ではキャメラを振るパンはないですからね。『晩春』では一度ありましたが、それも撮影助手の川又昻が担当したはずです。
『お早よう』の後30本以上の助手でいろいろな監督、いろいろなデザイナーについて大変勉強になりました。ああしようこうしようと夢見ていた時代でした。その経験は自分が一本立ちになった時の大きな糧となりました。
中学高校時代にたくさんの映画を見て感動し、特に日本映画、外国映画の黄金時代を経て、映画がこんなに素晴らしいならその映画に関わる仕事ができたらと願っていました。人間の生きざま、勇気、いろいろな愛の形、未来への希望、全て映画から学びました。
――今回は、美術の話だけでなく、俳優やスタッフのこともお伺いできました。たくさんのお話ありがとうございました。
(聞き手:松浦莞二、宮本明子)
出川三男(でがわみつお)
1936年生まれ。美術監督。『男はつらいよ』『幸福の黄色いハンカチ』『たそがれ清兵衛』『東京家族』など山田洋次作品を多数手がけたことで知られる。小津作品には『お早よう』で参加している。
取材後記(松浦莞二)
取材にあたり、兼松熈太郎氏にご協力いただいた。小津組の美術スタッフ編成やセット制作にかかった日数など、この取材で初めて明らかになった内容も多く、学術的にも大変意義のある貴重な話が伺えた。取材に際して、オープンセットの貴重な図面などが拝見できたので紹介したい。