016
新資料 小津安二郎最期の記録:野田高梧の手帖から
2023年、小津安二郎の最期の日々が記された記録*が発見された。
記録は小津の初監督作品以降、多くの脚本を共に執筆してきた野田高梧のノートに残されていた。野田は1893年生まれ。小津より10歳年長である。生涯結婚しなかった小津に対して、一家の父親でもあった。野田の視点や人物描写は、小津の映画に彩りをもたらしたはずだ。ノートは新・雲呼荘 野田高梧記念 蓼科シナリオ研究所が所蔵し、現在、翻刻解読が進められている**。病床の小津の記録は、俳優・佐田啓二が記している。撮影のため臨終に居合わせなかった佐田に対して、野田はその前月11月17日からの約1か月の小津の姿を記している。以下、ノートからの引用部分は〈 〉で記した。
創作への意欲
小津入院時の記録は11月18日から始まる。主治医曰く〈大分危険な條態〉だった。病室を訪ねた野田に、小津は〈死にかけましたよ〉と言い、〈話が二つ出来ましたよ〉と語った。同年3月から執筆に取り掛かっていた『大根と人参』のことだろうか。病室にあっても、創作への意欲は消えていなかった。
食事へのこだわり
小津は天ぷらのエビを三本食ベて見舞客を驚かせた。とんかつをパンに挟み、三つ食べたこともあったという。天ぷらは天政、トンカツは蓬莱屋のもので、いずれも小津の愛した店である。病室でも食事へのこだわりが垣間見える。
子どもへの愛情
佐田啓二の娘、貴惠の写真ができたと聞いて、小津は〈よく撮れてる、可愛いね〉と語った。別の日、見知らぬ子どもが病室にやって来たのを見て、食事に連れてゆきたいから起してくれと看護師に言ったという。撮影時に子どもを可愛がっていたという小津らしいエピソードではないか。
ユーモア
〈芸術院会員になって、院のつくことはみんないけない、入院、そして今度は院がつくか〉と、小津は見舞客にシャレを交えて語った。〈今度は院がつくか〉とは、亡くなって○○院と戒名がつくか、という意味だろう。入院という事態も笑ってユーモアに変えた姿が浮かび上がる。一方、11月22日には、見舞客に〈俺は死なないぞ〉とも語っていた。
最期の日
12月12日の野田の日記は、〈今日は小津君の誕生日なり。〉と始まる。病室に親族らが集まっていたときの小津の様子を、野田は〈表情は穏かなるも殆んど正気なく、臨終近き感あり〉と冷静に描写した。しかし、昼12時20分を過ぎて一旦退席すると事態が変わっていた。医師らが手当を重ねていたのだ。かろうじて臨終の場に立ち会えた野田は、〈余、急に一人になりたくなり〉と書き付け、小津を失った悲しみを刻んだ。
北鎌倉での通夜では、里見弴が〈嗚咽さる〉と記しているのも胸を打つ。小津は里見の小説の会話を手本としていると語っていた。小津が鎌倉に引っ越した縁で、公私共に交友を深めた作家のひとりである。〈篠田正浩君よく働いてくれる〉など、若手監督の名も確認できる。
以上、野田高梧のノートからごく一部の記録をたどった。翻刻は現在も続けられている。すべての翻刻が終わったとき、新たな小津像や制作の過程が浮かび上がるのではないか。
*©︎2016 新・雲呼荘 野田高梧記念 蓼科シナリオ研究所 本日記の無断転用、転載を禁じます。
**野田高梧記念蓼科シナリオ研究所の協力を得て、宮本明子が翻刻解読を進めている。記録の内容は、2023年9月26日「読売新聞」朝刊31面掲載記事「小津最期の日々を記録 盟友・野田に使命感」や、同研究所で実施された朗読会で明らかにされている。