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小津安二郎、青年時代日記の分析

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小津安二郎の中学時代の日記がまとめられ『小津安二郎松阪日記 大正七年・十年』と題され松阪市より刊行された。旧制中学時代の1918年(小津が15歳になる年)、1921年(18歳になる年)に書かれた日記だ。

 

日記の発見は1980年代だという。その後、一部が公開されたことはあったものの、全文が解読され発表されるのは本書が初めてとなる。小津の日記といえば『全日記 小津安二郎』(フィルムアート社、田中眞澄編纂、1993年)が有名だが、それは全日記ではなかったわけだ。

小津安二郎青春館で行われていた日記の解読勉強会には、筆者もその膨大な量からするとごくわずかな期間ではあるが参加していた。本書には解説も付いているが、そこからわかったことと、筆者がさらに分析したことをまとめる。記事にするにあたって、本書の翻刻注釈の原案を担当した小津安二郎松阪記念館(当時)の岩岡太郎氏にも取材した。

小津安二郎青年時代日記からの発見並びに追加分析

 

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(1)野田高梧との出会い

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小津と脚本家野田高梧との関係は長く、監督第一作から小津が亡くなるまでとされてきた。監督第一作は1927年でその脚本を書いたのが野田だった。一時中断を挟むものの、遺作『秋刀魚の味』も野田と小津の脚本だ。小津が亡くなったのは1963年なので、約36年の長い付き合いと知られてきたのだ。しかし、小津の日記を読むと1921年1月29日に雑誌「活動倶楽部」二月号を読んでいることがわかった。当時この雑誌には野田が緑川春之助という筆名を使って原稿を書いていた。この号にも野田は「スターリングの戀 喜劇俳優の胸に溢れる熱愛の情󠄁」という題で記事を書いている。俳優フォード・スターリングのD・W・グリフィス監督を介した恋愛話だ。

ひょっとすると、小津は1921年の時点で雑誌を介して野田を知っていたのではないか。そして、初めは読者と批評家の関係が後に共同執筆する間柄に発展した、ということになるのではないか。

日記に緑川の記事を読んだ、といった記載はない。しかし我々が追加で調査したところ、野田は「活動倶楽部」1921年に11本もの記事を書いている。内容は多岐にわたるが、文量は毎号二頁から四頁程度。小津が読んでいた可能性は高い。小津と野田とのつながりは思われているよりもさらに深いものではないかということが発見できた。

 

「活動倶楽部」1921年、野田高梧(緑川春之助名義)による記事一覧

01月 「無駄でない映画上の無駄話」二頁

02月 「スターリングの戀 喜劇俳優の胸に溢れる熱愛の情󠄁」二頁

03月 「女優挿話」二頁

04月 「春宵夜話 棚の牡丹餅 チヤールソンの結婚物語」二頁

05月 「洋の東西を問はず」二頁

06月 「雛祭の夜ー大活第三回作品ー」二頁(緑の星という筆名での記事)

07月 「字幕雑感」二頁

08月 「映画劇偶感」二頁

09月 「文藝映画偶感」二頁

10月 「少年映畫劇その他」二頁

11月 「映畫漫語 椋鳥雑記」四頁

12月 掲載なし

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(2)批評活動

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小津は学生時代に、新聞に映画評を投稿するなど批評活動を行なっていたことが分かってきている(詳しくは『小津安二郎 大全』を参照されたい)。そのより具体的な内容が明らかになった。

まず、1918年11月3日に「天狗クラブの表紙を画く」とある。これは六人からなるクラブのようだ。このクラブの詳細はわかっていない。しかし、ひょっとするとのちに小津らが結成したエジプトクラブという映画クラブの前身なのかもしれない。

1921年5月12日「南勢に醒井三郎の映画の囁が出ていた」とある記述も興味深い。南勢は南勢新聞のことで、醒井三郎は小津の筆名。自身の書いた投稿が掲載されたことを記録しているのだ。翌日には「竹生島三郎が南勢に出た」ともある。竹生島三郎も小津の筆名。なぜ二つの筆名があったのかは不明だが、浪人中に新聞にたびたび投稿していたと思われる。また同月27日に、古川緑波(古川ロッパ)に手紙を送っていることを窺わせる記載もあった。古川は喜劇役者として知られているが、当時は批評活動を盛んに行なっていた。そんな古川と手紙の交換をしていたのかもしれない。こちらも貴重な書き込みだ。小津が監督になる前に批評活動をしていたことも知られてもよい事実で、そのことが具体的にみえる貴重な書き込みといえよう。

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(3)受験の失敗

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神戸高商(現神戸大学)受験に関する日記もある。

1921年1月9日「愈(いよいよ)明日から勉強―目ざす神高商―」とあったかと思えば、その三日後には「原稿を書いて投書」。おそらく映画関連の原稿を書いて投稿したのだと思われる。さらに1月16日には、パール・ホワイトと人気を二分した俳優ルス・ロランドにファンレターを書いて送っている。

同月26日には、気持ちを入れ替えたのか「愈(いよいよ)明日から全力全力である 目ざす神高商」。そうかと思えば2月5日には映画のプログラムを注文するなど、受験勉強に集中できていないように思われる。同17日には「寸分惜んで勉強せよ」と自身に言い聞かせるような記載もある。

3月14日、受験初日が訪れる。「代数、幾何失敗した。国漢よし。余りに不良なので午後から兄と三人でキネマクラブに行く」とあり『暗号の四美人』『嵐を衝いて』『鳥人獣人』という三本の映画を観ている。受験初日がうまくいかなかったから映画を見るというのは気分転換であったとしても逆効果と思われる。その翌日の試験はどうなったか。「数学失敗せり」だ。小津が映画にのめり込んでいた姿や受験失敗の理由なども浮かび上がる。

受験が終了した翌日にも気になる記述があった。宝塚少女歌劇がまだやっていないから映画を観に行く、という内容だ。小津が小学校時代から晩年まで宝塚を愛好したことは『小津安二郎 大全』にも書いたが、この記述は宝塚への傾倒を具体的に示す一例だ。神戸高商だけでなく名古屋高商も受験し失敗していたこともこの日記から明らかになった。

浪人時代も勉強に集中できている様子はなく、先述のように批評活動に力を入れていたように思われる。5月1日には小学校の同窓会に参加し、「至つて低脳な奴ばかりだ」という記述もある。詳細は不明だが、進学を失敗したことを揶揄われたのかもしれない。6月15日は、映画を観て親友と将棋。負けて「俺は何も能のない人間だ」と浪人時代小津の内面が吐露される。

 

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(4)日本映画

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小津が自身で、松竹入社までに3本しか邦画は観ていなかった、と発言しており、そのことを真に受けている者も多い。しかしこのような発言を裏付けを取らずに信じることは危険だ。中学時代の日記から、多数の海外映画に混じり幾つかの日本映画を観ていることがわかる。1921年の日記からは、05/25『電工と其妻』(ヘンリー・小谷監督、栗島すみ子出演)、5/26『国難』(石塚忠利監督)、09/03『断崖』(牛原虚彦監督)、11/08『花散る夜』(若山治監督)、11/23『雛祭の夜』(栗原喜三郎監督)、11/25『此父此母』(賀古残夢監督)などの記述がある。若き小津はしっかり邦画も見ていたのだ。

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(5)その他

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俳句の記載もあった。1918年2月26日に「満月や畳の上に松の影」。14歳の俳句だ。これに対して特に解説はなかったが、宝井其角の俳句「名月や畳の上に松の影」をもじったものであろう。調べてみるとこの日は実際に満月であった。小津もその月を見ていたのだろう。其角の俳句をそのまま記すのではなく、満月として句を詠んでいるのが面白い。

音楽に関する記載もあった。1918年の6月25日から何度かオルガンを弾いた記述がある。1917年に発表された「さすらいの唄」(作詞:北原白秋/作曲:中山晋平)を弾いていたようだ。島村抱月が松井須磨子らと旗揚げした劇団のために作られた一曲だ。

その他、東京でペストが流行したため、1905年7、8月に三重の母方の実家である中条家へ一時引っ越していたこともわかってきた。

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『小津安二郎松阪日記 大正七年・十年』を振り返ってまとめた。雑誌「活動倶楽部」の追加調査や俳句の分析なども行った。非常に発見の多い意義のある一冊だ。近年の小津関連書籍で最も価値のある一冊だと捉えている。もっと話題になって良いのではないか。ある程度知識がないと読みづらく、ページ構成も工夫の余地があるように感じたが、小津の青年時代を知る上で欠かせない貴重な一冊だ。

 

 

文責 松浦莞二。『活動倶楽部』1921年号のうち、2月・3月・9月・12月号の調査は宮本明子が実施しました。調査にあたり、川喜多記念映画文化財団にご協力いただきました。

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