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『The Ozu Diaries/小津ダイアリー』

  監督ダニエル・レイムに聞く

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映画『The Ozu Diaries/小津ダイアリー』が日本で公開されることになった。『In Search of Ozu』『Ozu & Noda』に続く作品である。本作は小津の残した資料や関係者への取材により、小津とその人生に光を当てる。これまで米国では小津は人気がないとみられてきたが、近年小津作品への人気が高まってきているのかもしれない。本作制作のきっかけなど、監督に話を聞いた。

出典:『The Ozu Diaries/小津ダイアリー』公式サイト

ダニエル・レイム監督インタビュー

 

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――まず、ご自身について、そして次に『The Ozu Diaries/小津ダイアリー』を制作するに至った経緯を教えてください。

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ダニエル・レイムです。ロサンゼルスを拠点に活動しているドキュメンタリー映画監督です。私はずっと、芸術家の人生と作品との関わりに強く惹かれてきました。

高校時代、私はエミール・ゾラの『制作(L’Œuvre)』を読みました。ポール・セザンヌやエドゥアール・マネ、クロード・モネといった、彼の知人である画家の人生や苦悩を描いた作品です。その本を読んで気づいたんです。私はもともと印象派の絵画が大好きだったのですが、それと同じくらい、画家たちの内面にも強く惹かれていたのだと。その気づきが、ドキュメンタリー映画を作る上での自分の姿勢を形づくっていきました。

その数年後、1997年にアメリカン・フィルム・インスティテュートに入り、アルフレッド・ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』や『鳥』などで長年美術監督を務めたロバート・ボイルに師事しました。ボイルの人生と仕事に魅了され、彼を最初のドキュメンタリー作品『The Man on Lincoln’s Nose』の題材にしました。その過程で、映画を作る芸術家たち――監督だけでなく、美術監督や撮影監督など、映画を成り立たせているすべての芸術家たち――を掘り下げることに仕事を捧げたいと思うようになりました。

 

――作家と作品の関係に関心を持っていたわけですね。

そうです。そしてアメリカン・フィルム・インスティテュートにいた頃、小津の『東京物語』が必修作品になっていました。それまでは小津の映画を見たことはありませんでした。

 

――その時、あなたや同級生、友人たちは、皆『東京物語』を見たわけですね。皆さんの反応はどうでしたか?

他の人たちがどう反応したかは分かりません。というのも、図書館からVHSテープを一人ずつ借りて見なければならなかったからです。私は別の学生と『東京物語』を見たのを覚えています。二人で顔を見合わせ、完全に困惑していました。私は「へえ、面白いな」と思いました。畳の上で暮らしながら日々を送っている、ある家族を描いている。こんな映画は見たことがない。私は「これが本当に傑作なのか?」と思いました。いろいろな疑問が湧いてきたんです。

当時はまだ若くて、21歳くらいでした。最初に見たときは何も心に残りませんでした。その時点では作品を理解することができなかったのだと思います。当時、私はガス・ヴァン・サントの映画に興味を抱いていました。まったく違う映画のスタイルで、私自身が住んでいたポートランドを舞台に物語を描いていました。

その後、映画学校に通っていた頃、アッバス・キアロスタミの作品に出会って、何かがぱっとつながったんです。「この人は、映画というものを使って、こんなすごいことをやっているんだ」と思いました。

 

――キアロスタミの映画では、何が一番好きですか?

素晴らしい三部作、『友だちのうちはどこ?』『そして人生はつづく』『オリーブの林をぬけて』です。私はキアロスタミのインタビューを読んでいて、彼が小津を愛していることを知りました。彼は2003年には『5 five ~小津安二郎に捧げる~』という映画まで作っています。「なるほど、面白い」と思いました。そして『東京物語』を見たことを思い出しました。その2003年、小津生誕100年を記念して友人たちとUCLAに行き、35ミリフィルムの二本立てを見ました。『戸田家の兄妹』のあとに『秋刀魚の味』を見たんです。

 

『秋刀魚の味』は私の人生を完全に変えました。はじめて見たときの感覚を言葉で説明するのは難しいです。小津の映像に心を奪われました。トリス・バーの美しい場面、色彩、デザイン、音楽、場面のテンポ、そして笠智衆の演技。登場人物の一人ひとりが深い印象を残しました。私がそれまで経験したことのないほど、深く心を揺さぶられる体験だったのです。私は若かったので、「何が起こったんだ? いったい何が起こったんだ?」と思ったのを覚えています。今こうして思い出すだけでも、泣きそうになります。

 

その後、答えを探すためにドナルド・リチーの本を買いました。私にとって最初の小津の本でした。それを読んで、「リチーが『最も日本的な監督』だと評している、この映画監督はいったい誰なんだ?」と思ったのを覚えています。そしてヴィム・ヴェンダースの『東京画』を見ました。さらに『麥秋』や『お早よう』といった傑作を見て、すっかり小津の熱狂的なファンになっていきました。やがて私は、この巨匠についてドキュメンタリーを作らずにはいられない、と感じるようになったのです。

 

それから何年も経った2017年、『ハロルドとリリアン ハリウッド・ラブストーリー』の宣伝のために日本へ行くことになったとき、クライテリオン・コレクションから、小津についての短編ドキュメンタリーを作る機会を得ました。それが『In Search of Ozu』です。この作品では、小津がどのようにカラー映画へ移行していったのか、彼がグラフィック・デザインにどのように取り組んだのかを探っています。

 

――『The Ozu Diaries/小津ダイアリー』を制作する中で、何か発見はありましたか?

小津についてはすでに膨大な研究が蓄積されています。ただ、私にとって最も大きな発見だったのは、編集の途中で『父ありき』を再び見たときでした。その頃には、お二人や他の方々が書いた伝記をはじめ、小津の言葉や日記にも触れながら、2年間かけて小津について徹底的に調べていました。

そうして研究を重ねたあと、改めて小津の映画に戻ってみると、衝撃を受けたのです。まっさらな気持ちで『父ありき』を見直したとき、これはもう「感情的な自伝」としか言いようのないものだと感じました。小津は自身を映画の中に持ち込んでいたのだと。小津が9歳のときに父親と離れて暮らすことになったことやそのときの緊張が心に残り続けていたことを知った上で見ると、この映画がどれほど彼の人生に根ざした作品なのかが、突然、腑に落ちたんです。

そこから、脚本を書き、編集を進める中で、『The Ozu Diaries/小津ダイアリー』は小津の人生と作品を50%ずつ重ね合わせるような映画にすべきだと考えるようになりました。二枚の透明なレイヤーを重ねるようなイメージです。二つが重なり合い、両方を通して光が射し込むところにこのドキュメンタリーがある。小津の日記を読み、彼の映画を見ていくことで、小津がそれぞれの作品を作っていた頃にどんな人生を送り、何を考えていたのかが見えてくる――そこに、この作業の大きな面白さがありました。

 

――特に『父ありき』には、小津自身の人生が反映されているのかもしれません。

そうです。私たちが無藝荘(むげいそう)で撮影していたとき、火代番の藤森さんが、「小津は何も発明したわけではない。彼の映画はすべて、彼が知っていた人々や、彼自身をもとにしている」と話してくれました。

小津の作品を最も大きく形づくった人生経験は、戦争、無常、そして家族関係だったのではないかと思います。両親、そして親しい友人だった山中貞雄――この二人は、彼の人生において非常に重要な存在でした。

ここで、また『制作(L’Œuvre)』に戻るわけです。私は、「小津安二郎とは本当はどんな人間だったのか――ミルドレッド・ハリスとコーヒーを飲むことを夢見ていた少年とは、いったいどんな子どもだったのか」を知りたかった。松竹のアーカイブで小津の何百枚もの写真をはじめて見たとき、私は、彼の人生の旅路を誕生から死まで、本当に理解する必要があると気づきました。その気づきが、ドキュメンタリーの編集に取りかかるよりずっと前から続く、何年にもわたる深い調査へと私を駆り立てたのです。徹底的な調査を終えてもう一度あの写真を見る頃には、彼はもはや見知らぬ人ではありませんでした。私はついに彼を知った。映画を作る準備ができたのです。この意味で『The Ozu Diaries/小津ダイアリー』は、点描画、印象派の絵画のようなものです。絵の具にあたるのは小津自身の言葉です。しかし、そこから浮かび上がってくるイメージ、つまり小津の肖像は、私が小津をどう見ているか、そして小津についてどう感じているかによって形づくられています。「これが決定的な小津の姿です」と鏡を差し出すような試みではありません。

 

――これまで『The Ozu Diaries/小津ダイアリー』は、ヴェネツィア、釜山、リオ、ロサンゼルス、そして東京国際映画祭などで上映されています。それぞれの国で、反応はいかがでしたか?

身が引き締まる思いでした。映画を学ぶ学生、映画監督、批評家たちから、この作品に対して非常に深い反応があったと聞いています。最終的に、このドキュメンタリーは小津自身が語るための場を提供しているのだと思います。つまり、観客が小津という一人の人間に、彼自身の言葉ではじめて出会うことができるのです。

『麥秋』を見ながら、小津が子どもたちを演出する際の意図について語る声を聞いたり、『晩春』と『麥秋』では感情がどこに存在するのか、その違いについて彼が語るのを聞いたりすると、小津が場面と場面の間、あるいは余白にある何かを伝えようとしていることが分かります。そうした感情の底流こそが、小津の映画をこれほど力強く、深く感動的なものにしているのです。観客からは、小津自身の口からそうした意図が語られるのを聞くのは大きな発見だったという声をもらっています。

 

――泣く泣くカットした映像はありますか?

ヴィム・ヴェンダース、黒沢清、ツァイ・ミンリャンにインタビューしました。彼らはそれぞれ非常に深い洞察を語ってくれましたが、その多くを映画の中に入れることはできませんでした。

それから、小津の言葉にも宝のようなものがたくさんあります。たとえば、喜八三部作を作っていたときの彼の内面の葛藤、キング・ヴィダーの映画を見ながら、トーキー映画の到来にどう向き合っていたのか、といったことです。ヴィダーは小津にとって、いわば北極星のような存在でした。ヴィダーと小津が何をしていたのかを並べて、そこから小津が映画の形式と格闘していた様子をもっと掘り下げられたらよかったと思います。しかし最終的には、私たちが語ろうとしている物語のために適切なバランスを見つけなければなりませんでした。

 

――小津の戦争体験については、どのように考えていますか?

小津の戦争体験は、調査の中で最も難しい部分でした。戦争は小津にとって非常に過酷な経験だったに違いありません。その経験が、その後何年にもわたって作品に浸透していったのだと思います。

私は戦争に関する部分をほぼ全面的に、小津自身の日記、インタビュー、写真から構成しました。彼は戦争中もライカを携帯していました。撮影した写真は約4,000枚にのぼりますが、その後の火災で、そのうち残ったのはほんの一握りでした。私は戦争を「外側から語る」のではなく、小津自身の心と目を通して描きたいと思いました。感覚が麻痺していくこと。はじめて敵兵の死体を目にしたこと。そして、自分自身を「もはや映画監督ではなく、兵士だ」と語る瞬間。田中眞澄は著書『小津安二郎と戦争』の中で、これをイデオロギーの問題としてではなく、自分自身を守ろうとする精神の働きとして捉えています。戦争という状況のもとで小津の人間性は危機にさらされた。そして彼は、その危機を通り抜けたのだ、と。

それでも、その後の数十年間に、彼は驚くほどの優しさとユーモア、そして抑制に満ちた映画を作りました。このドキュメンタリーを制作する中で、私は小津の映画を、彼の戦争体験というレンズを通して見るようになりました。もちろん、それだけではありません。両親、彼が失った人々、そして彼を取り巻く社会の変化――そうしたすべてのものが彼の作品を形づくっていたのです。この映画は、小津が何を信じていたのかについて、論評するものではありません。また、小津が戦争中にしたことを裁くものでもありません。作品を人生と並べて置き、その複雑さとともに、私たちが静かに向き合うこと。それが、この映画の目指していることなのです。

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以上の取材は、日本での初上映となった東京国際映画祭翌日に行った。映画祭の最中、時間をとっていただいたことに感謝したい。

 

我々の評価は分かれた。「多くの人が小津映画を見るきっかけになる」「米国での小津の受容がわかる」「良心的な作品」「今は亡き関係者の証言が聞けた」「なぜ青年時代の日記に触れないのか分からないが、小津の生涯が理解できる」など前向きな意見があった。

一方、「新しい発見や視点がまるでない。小津ファンには退屈な内容」「日記から小津の内面が語られるのかと思ったが、雑誌記事などの公的発言ばかりが使用されていた」「映画としての魅力に乏しい」などの声もあった。

 

小津は生前、いつか外国の人にも自身の作品が分かるだろうと語っていた。ついに米国でも少しずつではあるが人気が出てきたのかもしれない。この作品をきっかけにさらに多くの人に小津の映画を見てもらいたい。

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© 2020 小津安二郎学会

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